2024/3/23

映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』

シネマチュプキで見た。

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映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』公式WEBサイト

東日本大震災で多数の犠牲者を出した宮城県石巻市の大川小学校を題材に、遺された親たちの10年に及ぶ思いを記録したドキュメンタリー。

2011年3月11日に発生した東日本大震災で、津波にのまれて全校児童の7割に相当する74人の児童(うち4人は行方不明)と10人の教職員の命が失われた大川小学校。地震発生から津波到達までは約51分、ラジオや行政の防災無線で情報は学校側にも伝わり、スクールバスも待機していたにも関わらず悲劇は起きた。その事実や理由について行政からの説明に疑問を抱いた一部の親たちは、真実を求めて提訴に至る。わずか2人の弁護団で、いわれのない誹謗中傷も浴びせられる中、親たちは“我が子の代理人”となって証拠集めに奔走する。

親たちが延べ10年にわたって記録した膨大な映像をもとに、寺田和弘監督が追加撮影などを行いドキュメンタリー映画として完成させた。

 

大川小学校のことは知っていたし、裁判のことも知っていた。でも、裁判に至るまでの経緯を全然知らなかった。親御さんが記録として撮影していた学校と教育委員会の説明会は本当に酷くて、どうして「組織」ってこうなってしまうんだろう……と絶望感が凄かった。ここ最近見てきた、色んな組織の不祥事と同じ。

「どうして我が子は助からなかったのか」を知りたい親たちにとって、たった一人だけ生き残った教員の証言はとても貴重なものだった。でもその先生は最初の説明会でしか直接口を開く機会がなく、そのたった一度の証言は一緒に助かった児童と内容が食い違っていた。そのことに背筋が凍る。親御さんたちから罵声を浴びる先生は、「組織」の被害者のように見えた。いったい何を隠しているんだろう。いったい何を守っているのだろう。校長は先生から届いたメールを削除しているし、教育委員会は生存した子の証言について「こどもの記憶は変わるもの」と言う。怒りとか悲しみを超えて絶望感に襲われた。組織側の人間も、別に極悪人とかではなく、むしろ普通の人たちなのだと思う。組織という人格があるのかな。なんかほんと、ものすごく気持ち悪かった。

行政からの説明会、事故検証委員会の検証でも納得のいく結果は得られなかった。「我が子が最後に見た景色、感じたことを知りたい。怖かったのか、寒かったのか、お母さんって呼んでいたのか。どんな些細なことでもいいから知りたい」断罪したいわけでも、お金が欲しいわけでもない。本当の願いは「うちの子を返して欲しい」で、それが叶わないからせめて「本当のことを知りたい」。その手段として裁判を起こした。この国では、裁判を起こすためには失われた命に値段を付けないといけない。「親たちは、そんなこと絶対にできないんです。自分の命よりも大切な、大切な我が子に値段を付けるなんて。でも、この国の司法ではそうするしかないんです」親たちに代わって「一人一億円」という値段を付けた弁護士の言葉に胸が締め付けられた。大川小学校だけでない、様々な裁判に対して言われる、「お金が欲しいからだ」という批判がどれほどの無理解か。自分も昔は知らなかったから、もっと知られて欲しいと思った。もっと当たり前のことになって欲しいと思った。他の国の司法はどうなのだろう? こんなことをさせない方法があるならば知りたい。

裁判は一審、二審ともに「救えたはずの命だった」と遺族側の勝訴だった。中でも二審判決では、「初めて自分たちの思いが届いた」とご遺族は涙を流して喜んでいた。学校と教育委員会の、平時からの組織としての過失が認められた。でも、本当に知りたかった、新たな証言や事実は明らかにならなかった。映画上映後に弁護士の斎藤先生が質疑応答した中で、裁判では「判決をくだすために必要な証言」を裁判所は求めるので、原告側が聞きたい証言とギャップがあると仰っていた。遺族は生存した先生の証言を何よりも聞きたかったけれど、その先生の証言がなくとも判決を下すことはできたので、医師から「証言は難しい」と診断されたら裁判所はそれ以上を求めなかった。目的に叶う手段がないことがもどかしく感じた。

この裁判がなかったら、あの震災から日本はなんの教訓も得られなかった。親御さんたちは、亡くなった74人の生徒さんだけではなく、震災で亡くなった1万7000人を救ったのです。

懸命に裁判を戦った親御さんたちは、「金目当てだ」と謂れのない誹謗中傷をたくさん受けた。京アニ事件の直後に、「ガソリンをまいて火を付ける」と脅迫された。「何度も何度も殺されているような気持ちだった」という言葉。こうして名前を出して、顔を出して映画に出ることも物凄く怖くて勇気の要ることだと思う。その勇気に報いるために私たちができることはなんだろう。SNSで誹謗中傷に加担しない。それだけで十分なのかな。もしも自分が「組織」側になったとき、組織の人格に飲まれずにいられるのかな。大事なことを大事と、譲らずにいられるのかな。一人一人の勇気を問われているような気がした。闘った人たちのことを忘れない。