加藤さん、ラスベガスへ
加藤さん海外に行っちゃった……加藤さんのいない日本なんて……ってがっかりしてたら、旅先からめっちゃSNS更新してくれる!嬉しい!アンテロープキャニオンとラスベガスの写真をアップしてた。たくさんインプットして、楽しんで無事に帰ってきてください。
そして今回の旅の目的Sphere
— 加藤シゲアキ Shigeaki Kato (@Shige_no_hitori) 2024年2月19日
U2!
噂に違わずとんでもない映像体験と高音質
OMG!
興奮しすぎて謎のポーズ pic.twitter.com/y69xsaepPR
SORASHIGE BOOK
✉️「自分に刃物を向けてくる人間を抱きしめられる人間でありたい」という言葉に共感し、心がけています。そうは言っても、いくら抱きしめても刃物を向けてくる人はいませんか?
(∵)これね、上手く伝わってないと危ない言葉だなって僕も言った後に思ってるんですけど。刃物を向けてるっていうのは相手が怯えてたり警戒してたり、ツンケンしてても抱き締めてみたらわかり合えるってことがあるんですよね。
なんでその刃物を振り回してんのかってことをこっちが理解できて抱き締めるところまでいけると、手から刃物を落としてその人も誰かを抱き締めていくって連鎖になる……と信じてるんですけど!
この話になると「寛容であれ」って話になるんですよね。僕は基本的に寛容でありたいんですけど。ただ、寛容についての有名なパラドクスがあるんですよ。これは調べて貰いたいんですけど、「寛容のパラドクス」って言葉があって。
カール・ポパーって人が発表した話なんですけど、「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか壊される」っていう話なんですよ。
ちょっとわかりにくいかもしれないですけど、例えば「差別的な人に対しても寛容でいるか」ってことで。すごく差別とか独裁的な人に対しても寛容であるか。全ての人を受け入れるとそういう人にも寛容であることになるんだけど、不寛容な人にまで寛容でいると寛容な社会も壊されるってことなんだよ。
難しい話というか、俺もカール・ポパーをちゃんと全部読んだわけじゃないんだけど、「不寛容に対しては不寛容でいて良い」っていう話なんですよ。不寛容であることには不寛容であるべき。
いるじゃない?差別的な人とかヘイトする人とか。そういう人たちも「まあまあ、わかるよ」って話し合うことができたら理想だけど、もう駄目な場合というか。そもそもそういうのは法律で取り締まるべきだっていうこともあるしね。犯罪とする、法律で取り締まるってことが大事だとは思うんですけど。
不寛容な人間に対してまで無理して寛容である必要はないってことは一個、すごく大事なんですよ。これはすごく伝えておきたいと思う。社会を寛容な社会にしていくには、不寛容な人間に対してまで寛容である必要はないってことなんだよね。色んなケースがあると思うけど、こういう意識も大事だと思うね。
加藤さんのこういうところが本当に好き。