2023/10/16

広島滞在三日目は平和学習デー。だいぶノープランというか、プラン通りにいかなかった結果行き当たりばったりになったけど、そのお陰でかなり充実した一日になった。

 

袋町小学校 平和資料館

曲がる角を間違えたら前をたまたま通りがかって、中を覗いたら人がいたので立ち寄ることにした。

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小学校の敷地の一部に古い校舎が保存されているような形。隣はグラウンドだった。玄関から入ると、見学の人に入口の壁に貼ってある写真について説明してる最中みたいだった。私はそのまま入っていいということで、帳簿にどこから来たのか書いて中に入った。

映像を見られるということで、まずは地下の教室へ行った。階段は木なので一歩ごとにギシギシ軋んでちょっとヒヤヒヤする。映像は自分でボタンを押して再生するもので、NHK制作のドキュメンタリー番組だった。見た番組は今検索しても見つからなかったけど、中を紹介してるYouTube動画があった。これでかなりわかる。

⑫袋町小学校平和資料館~特別分科会1「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」金子哲夫 - YouTube

番組は、壁に残された伝言を探すところからカメラで追っていた。ここから書くことは、映像と館内で読んだ他の資料の内容ごちゃ混ぜ。、

壁の伝言はそのまま見える形で残っていたのではなく、上から漆喰が塗られて、現存しているのかわからない状態だった。平成に入ってから校舎の建て替えをすることになり、建物の取り壊し前に漆喰を剥がして伝言を探した。「壁に伝言があったこと」がわかっていたのは、その様子が写真に収められていて、平和祈念資料館で展示されていたから。当時、もう伝言は残っていないと思われていたけど、取り壊しを始めた時に漆喰の一部が剥がれて文字のようなものが見えた時に気付いた人がいた。気付けたのは、写真が残っていて、大勢の人が見る形で展示されていたから。そうじゃなかったら、捜索なしで伝言ごと建物は取り壊されていたかも。

読んで、「へー!」って思った「写真では黒い壁に白い文字だった伝言が、発見されたときは灰色の壁に黒い文字だった理由」の説明。

①「黒い壁」だったのは原爆投下で壁が煤けて、黒くなっていたから

②「白い文字」だったのは、チョークで書いていたから

③文字は、消すのが忍びなくて学校を再開するまで放置されていた

④放置されていた間に、チョークのカルシウムが壁にくっついた

⑤学校再開に際して、文字を残したまま上から漆喰を塗った

〜数十年後〜

⑥文字を探すために漆喰を剥がした際、漆喰とチョークが同時に剥がれた

⑦チョークによって保護されていた「煤」が文字として現れた

つまり、漆喰の下から出てきたのは「チョークで書いた文字」ではなく、その「跡」だった。偶然が重なって、残って良かったよね。

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これは黒板を剥がしたらその裏から出てきた壁。チョークの文字がそのまま残ってた。「田中鈴(江)」ってはっきり読める。

出てきた文字は役所の人と、色んな専門家が集まった会議で、それぞれの分野から分析して解読したらしい。ちらっと見れた様子だと言語学者とか?「ここの漢字の払いは◯◯だから……」とか。専門家アベンジャーズ見たかった。

色んな専門家が頑張って解読した文字だけど、ご遺族の方に見せると驚くほどスラスラと読んだらしい。映像でもスラスラ読むところがあったけど、その凄さは映像だけだとわからなかった。(あまりにも簡単に読むから)文字の捜索に当たった人が書いた手記で、すごく驚いた光景だったと書いていて、そうだったんだと思った。


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地下の廊下。ドア、太鼓も保存して展示されてた。

 

一通り見て回った後、受付に戻って「さっき玄関で何をお話ししてたんですか?」って聞いて、同じ説明を聞かせてもらった。話してくれたのはここを担当してるシルバー人材センターの人で、戦後生まれで、めちゃくちゃ勉強してここの受付と説明係をやってるらしい。玄関のところに貼ってある大きな写真が、大事なのに説明がないから口頭で来た人に説明してるそう。

・写真は、原爆投下から一か月後の広島の風景。

・人が全然映っていないのは、大きな台風が通過した直後だから。台風で2,000人以上が命を落とした。

・広島市内のほとんどが浸水した。これによって放射能が洗い流されたと言われた。放射能を恐れて広島に来れなかった人たちが、台風の後に来れるようになった。

・孤児になった子どもたちが大勢いた。正確な数字は誰にもわからない。全国からヤクザが来て、孤児をスカウトして組員にした。ヤクザになんてなりたくなかったけど、ヤクザにならなかったら生きていけなかったと後に語る人もいた。

説明してくれた方は戦後生まれなのでここで働くにあたりたくさん勉強したそう。おすすめしてくれた本の著者(アーサー・ビナードさん。アメリカの詩人)のファンみたいで、「この人の講演会には何回も通った。すっごくハンサムで、リンカーンの若い頃に似てる」って急に気さくになって面白かった。確かに検索するとハンサム!!帰り際は広島カープの話もした。さすが市民球団。

私が行った時は他に1組しかいなかったけど、「これから修学旅行生が200人来る」って言ってた。結構狭いけど200人も……?! でも建物丸ごと当時のものっていうのは本当に貴重だよね。良い修学旅行コースだなぁ。

 

広島県立広島第一高等女学校職員生徒追憶之碑

本当は最初の目的地としてここを目指して歩いてた。

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今年の夏、終戦の日に向けた新聞連載で原爆で亡くなった方の日記を毎日公開するというものがあった。

連載「「明日もがんばろう」~途切れた日記~」一覧:朝日新聞デジタル

その日記の主のうちの二人が、この広島第一女学校の女の子二人。まだ一年生だった。二年生と三年生は学徒動員されて働きに出ていたので、学校には一年生だけが残っていた。だからここの碑にも、一年生の名前がずらりと並んでいる。日記を読ませてくれた瑤子ちゃんと悦子ちゃんの名前もあった。数人の二年生と三年生と、先生の名前もあった。

今度は、喜んでもらえそうな可愛いお花を持って行きたい。

 

広島平和祈念資料館

今日の一番の目的、平和祈念資料館!!!

……に、入れなかった!!!!😂😂

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到着した時点で長蛇の列。中に入るまで45分待ち。土日に来たフォロワーさんが30分待ちって言ってたから、月曜ならそれよりは短いかと思った😭大誤算😭😭なんてこった

流石に帰りの飛行機とバスの時間があるので、ここで45分使うのはもったいないと思ってやめた。さっきの袋町小学校みたいに、近くにもっと見れるところありそうとも思った。来るなら朝イチなんだろうな〜……。またいつか。

 

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平和記念公園は、修学旅行生以外はほぼ海外からの観光客だった。めっちゃ多い!!!インバウンドですな。なんとなく、東京よりも欧米系の方の比率が多い感じ。G7の影響あるのかな。

 

公園内をガチノープランで歩いてたら、「おっ!何かある!」って見つけたのが次の施設。

 

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

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ここの階段を降りると建物の入り口があり、中へ入ると更に回廊を下ってまずは「追悼空間」へ入る。

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国立の施設だけど(だから)、はっきりと「誤った国策」って書いてあるんだね。
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追悼空間は真ん中に「水を求めながら亡くなった方々のための泉」があり、原爆が投下された時間である8:15を表したオブジェになっている。360度囲む壁は、原爆で亡くなった14万人と同じ数の、14万枚のタイルで爆心地から見た風景を描いている。

風景の下には広島市内の色んな地名が書いてあって、その方角と距離がわかるようになってる。きっと広島の人だとすごくよくわかるんだろうな。

 

追悼空間を出て順路を進むと、次は遺影コーナー。原爆で亡くなった方々の遺影とお名前(写真が無ければ、お名前だけ)が大きな画面で流れている。一人ずつというか、一画面あたり9人ぐらい×9画面 みたいな感じで。あいうえお順なので、同じ苗字の方がずらっと並んだりする。「一家全滅もあった」ということを思い出した。

画面のある部屋には、遺影を検索できる端末が壁沿いに何台も置いてあった。広島第一女学校の瑤子ちゃんと悦子ちゃんを検索してみると、連載で載っていたのと同じ写真と、二人の詳細が出てきた。驚いたことに、写真だけじゃなくて亡くなった当時の状況とか、関連した書籍や番組があるかとか、色んな情報が網羅されてた。瑤子ちゃんの画面には「関連する人物」みたいなボタンがあって、それを押すと同じく原爆で亡くなったご家族が表示された。瑤子ちゃんのお母さんは原爆投下後、市内へ娘を探しに行って被曝して亡くなったと書いてあった。

 

遺影コーナーから上に上がるエスカレーターに乗ると、体験記閲覧室と企画展示室があった。体験記閲覧室は学校の図書館みたいな雰囲気で、壁は全面本棚で、パソコンが何台も置いてある。ここでは資料の閲覧と、体験記の視聴ができる。体験記はパソコンで検索して、文章だけでなく映像も見られる。多分このデータベース、めちゃくちゃ凄いんだと思う。映像を検索するときは、氏名、性別から被爆時の年齢、職業とか「こんなことでも検索できるんだ」ってことが網羅されてた。「おすすめ」ボタンもあって、それを何度か押して20分ぐらいの動画を見た。

私が見た方は女性で、被爆時は路面電車で通勤の途中だった。物凄い衝撃で電車に爆弾が落ちたと思ったこと、電車からとっさに飛び降りたこと、飛び降りた後が地獄だったこと。何時間も歩いて家に帰ると、家だった場所は焼け落ちていたこと。家にいたはずの姉が見つからなくて、生き残った姪と母と一緒に姉を探したこと。母と姪も、一か月後に悶え苦しみながら死んだこと。

安らかになんて死ねないんですよ。苦しみながら死ぬんです。布団にいなくて、あれ、どこ行っちゃったかなって探すと廊下で。「苦しい、苦しい」って転げまわりながら死ぬんです。今で言う原爆症ですかね。

今が幸せじゃなんて言えませんよ。でも肉親が亡くなったりしませんから。これ以上望んじゃあいけませんよ。

 

もしかしてこの証言集ってネットで公開してるかな?国立だし?って調べたら、平和祈念資料館の方でページがあるみたい。すごいね。

被爆者証言ビデオ – 広島平和記念資料館平和データベース

 

 

最後の企画展示室では、「空白の天気図 -気象台員たちのヒロシマー」という気象台で働いていた人たちの展示をしていた。メインは大きなスクリーンで見る映像で、HPで同じものを見られる。

企画展 | 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

原爆が投下された後も、観測記録が欠けてはいけないと観測が毎日続けられていたのは前にどこかで読んで知っていた。(確か長崎もそうだったような気がする。本当にすごい。後世の私たちのため。)

映像は30分ぐらいあったけど、多くの外国人観光客の方が見入ってた。でも映像は日本度の音声と、日本語字幕と英語字幕だけだったのでちょっともったいないなと思った。もっと多言語に対応する方法ないのかな?字幕の種類が増えるだけで違いそう。みんな英語できる前提はちょっと違うと思う。

映像の最後の方で、さっき袋町小学校で聞いた台風のことも触れた。原爆と台風で大きな被害が出たので、被害状況を調査してまとめた証言集が作成された。これが原爆投下直後に証言を体系的にまとめた唯一の調査書。500部刷ったけどGHQに没収されて、隠し持ってた残りが数年経ってから世に出た。この調査の責任者だった北さんの手記が検索したら出てきたので貼っておく。

気象台から見た原爆・黒い雨  :北 勲(きた いさお) 

GHQに没収されたくだりとか、アメリカから来た人はどう思うんだろう。っていうか全体的にやっぱり、こんなに海外から来た人で溢れているのが意外で、すごいえらいなって思った。なんかさ~今年の夏にバービーとオッペンハイマーの件が日本で燃えてたとき、そのことをアジアの他の国の人に言ったら「それは日本だからだよ」って鼻で笑われた みたいな話聞いてハ~~~そうだよね~~~って思って。アジアの国で日本軍がやったこととか、目逸らしちゃいけないって、追悼館まで来てる海外の方々見て思ったね。明らかにアメリカの人だろうな~って人もいたし。めっちゃえらいわ……。

 

 

広島市平和祈念公園レストハウス

爆心地行ってみようって向かってる途中で通りがかった。あ!知ってる!被曝ピアノがあるところだ!建物の前にそのことを示した看板も出てて、3階には展示室もあるということで入った。

 

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被曝ピアノ。ポッドキャストで聞いて知ってた。2階のカフェに展示されてた。

キラキラ輝く音がする 広島の被爆ピアノを演奏すると...(耳で聞く広島) #201  - Omny.fm

 

3階の資料室はこんな感じ。

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部屋の真ん中に原爆が投下される前のここら辺一帯のジオラマがあって、周りに色んな写真とか説明書き。こんなにみっしり家が建ってたんだ……ってジオラマを見ると思うし、地図を見ると平和祈念公園になってる辺りは本当にたくさんの商店ばかり。拡大して読んで欲しい。

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気持ち拡大した写真。

この中に「ビリヤード」って書いてある場所があって、なんか なんかね〜〜〜。いやビリヤードだけでなく全部そうなんだけど、「本当に市井の人々の頭の上に原爆を落としたんだ」って、「ここには生活があったんだ」って思う。「原爆は公園の上に落とされた」って思ってる人がいたらしいけど、このジオラマ見せたいよね。

 

島病院

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「原爆ドームが爆心地って思ってる人いるけど、本当は島病院なんだよ」って聞いたので行ってみた。行ってみたら、今も病院だった……!!すごいな……。

【ヒロシマの空白 被爆75年】街並み再現 爆心地の島病院、継ぐ思い | 中国新聞デジタル

 

 

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大体こんな感じで平和学習デー終了。あとは目を付けてたお店で激うまパスタ食べたり、通りがかった店で折り鶴を材料にした再生紙のしおり買ったり、おりづるタワーで「入館料たっか!!!」って諦めたり、本川小学校平和資料館入ろうとして入れなかったりした。結局平和祈念資料館入れなかったし、まだ行きたいところあるし、来年以降もこういう日が必要だと思った。今度はちゃんと早起きする。

 

 

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ばいばい広島!また来るね〜