ごっちがわかった(気になった)。

 

なんかもうヘレンケラーの「Water!!」と同じ感じで「Gocci!!!!」って声を上げたくなる感じだった。わたくし、映画ピンクとグレー観賞7回目にしてやっっっとごっちのことがわかりました。6回目まではずっと「あ~ごっち全然何考えてんのかわかんないな~~でもりばちゃんがわかんないんだから私が分かるわけないよな~~」と思ってた。しかし7回目、突然ごっちがすごくよくわかるようになった。一度わかってみると、今までなぜわからなかったのか分からない。むしろりばちゃんの方が未だに謎が多い。ともかく、私はやっとごっちがわかった。

 

「やらないなんてないから」と「やりたいことじゃなく、やれることをやる」

これ。これに尽きる。6回目まで、なまじ原作を知っている私はこの 「やらないなんてないから」という言葉に引っ張られすぎていた。小説ではこの「やらないなんてない」がごっちの本質になっているけど、映画は違う。映画のごっちは「やれることをやる」の人だ。そしてその「やれること」が「やりたいこと」ではなかった人だ。そう考えるとすべてが超しっくりくる。

最初に「ん?」と思ったのは、ごっちとりばちゃんで小出水さんに会いに行った帰りだった。りばちゃんがテンション高く「芸名なんにしよっか」とぺらぺら話す中、ごっちの反応が異様に薄い。その前の事務所の場面でもりばちゃんばかり前のめりだなぁと思っていたけど、この帰り道のシーンでごっちの芸能界へのモチベーションは0どころかマイナスなのでは…?とすら思った。その後エキストラ、ドラマ出演とステップアップして行ってもどこにも芸能界への興味を感じられない。やれることを淡々とこなすうちに上って行ってしまった。そしてごっちは、芸能界に限らず何事にも興味が薄い。「やりたいこと」がない、「欲しいもの」がない。サリーが描いた絵にあんまり喜ばなかったのも、単純に興味がないのだと思った。ごっちにとって特別な存在なのは姉とりばちゃんだけで、それ以外はそんなになんだろう。そしてやりたいことがないから、生きていたいとも思わない。

 

「やりたいこと」と「やれること」が一致していた姉とりばちゃん

ごっちにとって、姉とりばちゃんは同じベクトルで憧れだったのだろう。りばちゃんはごっちと一緒に芸能界の入り口に立った。キラキラ目を輝かせて、全身から「やりたい」が溢れていた。りばちゃんは天邪鬼だから、ごっちの手の中にあるバレンタインチョコも芸能界での活躍も「俺はそういうの興味ないから」と嘘を吐いてそっぽを向く。二人の仲が決裂した夜、ごっちは今までにないほど感情を露わにしていた。少し演技が混ざっているのかもしれないと思ったけど、「りばちゃんみたいな人が大事なんだ」「自分で止めてるからイライラする」というのは本心だったと思う。ここの台詞が6回目までずっと上手く理解できなかったけど、7回目でやっとわかった。「やれることがやりたいこと」であるはずのりばちゃんが羨ましいし、それを「やらない」のがもどかしくてイライラしていたのだ。きっと芸能界ほど「やりたい」がないとやってけない場所はないのだ。まあ、どこの業界もそうなのかもしれないけど。。 私みたいな特にやりたいこともなく、生活のためお金のためになあなあで仕事してる人間にはわかる。やりたいことがある人って、それだけで超輝いてて羨ましいんだよね。ごっちと私じゃ全然違いますけど。

ここからは更にこじつけが酷くなるけど、多分ごっちの姉もりばちゃんのような「やれることがやりたいこと」だった人なのだと思う。それが「姉貴と同じ景色は見れなかった」の意味なのだと私は解釈した。最期までごっちは、やりたいことが見つからないままだったのかもしれない。やりたいことがあるりばちゃんは「生きていたい人」だった。ごっちはそうじゃなかった。切ないなぁ。

 

以上、7回目の気付きでした。そもそも私はりばちゃんの心情を追うために観に行ったのに、むしろりばちゃんが余計わからなくなったぞ…でもごっちはわかったぞ…。原作を読んでるが故に先入観で見落としてしまう点があるのだと気付きました。

あー、りばちゃんわからない。でもわからないわからないって唸るたびに脳内でごっちが「それでいい」って微笑む。そうか、それでいいのか。おやすみなさい。