2025/8/24

黒川の女たち

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kurokawa-onnatachi.jp

シネマチュプキで「黒川の女たち」というドキュメンタリー映画を見た。絶対見ようと思っていたのでかなり早くから予約していたけど、もう8月は全日程満席で10月に追加上映が決まったらしい。

戦時下の満州で黒川開拓団の女性たちに起きた「接待」という名の性暴力の実態に迫ったドキュメンタリー。

1930~40年代に日本政府の国策のもと実施された満蒙開拓により、日本各地から中国・満州の地に渡った満蒙開拓団。日本の敗戦が濃厚になるなか、1945年8月にソ連軍が満州に侵攻し、開拓団の人々は過酷な状況に追い込まれた。岐阜県から渡った黒川開拓団の人々は生きて日本に帰るため、数えで18歳以上の15人の女性を性の相手として差し出すことで、敵であるソ連軍に助けを求めた。帰国後、女性たちを待ち受けていたのは差別と偏見の目だった。心身ともに傷を負った彼女たちの声はかき消され、この事実は長年にわたり伏せられることになる。しかし戦争から約70年が経った2013年、黒川の女性たちは手を携え、幾重にも重なる加害の事実を公の場で語りはじめた。

あらすじに書いてある通り、第二次世界大戦中に日本政府は満州へ「開拓団」を多数送り出した。映画ではその当時のことが映像付きで説明されるけど、先日行った東京都近代美術館の展示でも満蒙開拓に関連した展示物がたくさんあったので、「進研ゼミで見た!」状態になった。雑誌やポスター、絵画で見たものが今度は実際の映像で見られる。色鮮やかな絵画も見た後だったので、モノクロ映像で見る満州の景色もカラーで想像することができた。短いスパンで両方を見ておいてよかった。
満州へ送り出された開拓団が住んだ家は、満州の人たちから取り上げた家だった。畑の”開拓”もしなかった。家と同様に、現地の人たちから横取りした畑だった。イスラエルがパレスチナでやっていることと同じだ。80年経っても戦争は変わらない。終戦間際、開拓団を守るはずだった関東軍は北部の開拓団を置いて南下した。元からそのつもりだった。北からソ連軍が攻め込んできて、何も知らず取り残されていた開拓団は満州の人たちから襲撃された。当然恨まれていた。集団自決をする開拓団もいる中、岐阜県の黒川村からやってきていた黒川開拓団は生きるためにソ連軍に助けを求めた。生きて日本に帰るために守って欲しい。ソ連軍将校が求めた見返りは、女性たちだった。団の意思決定をしていた男性たちが、団の「未婚の女性たち」を差し出すことを決めた。「生きて帰るために犠牲になってくれ」と言った。団員全員の命がかかっていた。断れるはずがなかった。
このおぞましい出来事は、被害者が自ら語ることによって初めて公となった。そして、語られることによって生まれた変化を、カメラが捉えているのがこの映画の凄さだ。
満州から日本へ帰国した後、女性たちは誹謗中傷に晒された。彼女たちの犠牲は「恥」だった。これ以上誰にも知られないようにすることが「彼女たちのため」だとされた。

 

この映画の中で、彼女たちの犠牲を語り継ぐために「碑文」を立てようと遺族会会長が奔走する。慰霊のために「乙女の碑」というものが既にあるけど、なんの説明もないのでちゃんと文章で残そうとした。これが本当に大変な作業で、会長さんはすごく頑張っていた。戦後70年近く経って、実際に当時を語れる人は多くない。会長さんも、黒川開拓団の二世だった。

私は、映画を見ながら「どうしてもっと早くこういうことをできなかったんだろう」と思った。当時のことを知り、語ることのできる人がもっといた頃にできなかったのか。70年も80年も経ったら遅すぎるのではないか。既に亡くなってしまった方々を思うと遅すぎるけど、映画を見ているうちに「世代交代したから」実現できた、あるいは「当事者がいなくならないと」できなかった、そういうことを感じた。

碑文を建てることに大反対していたうちの一人は、開拓団の団長の息子さんだった。彼は、自分こそが被害者の気持ちを一番よくわかっていると言った。(余談だけど、性暴力の被害者たちは「乙女」と呼ばれることが多かった。自分がその呼称を使うには抵抗がある)被害を隠して結婚した人たちもいるのだから、隠し続けることが彼女たちのためだと言う。実際に、被害者である方々が「なかったことにしたくない」と当時を語り、二度とこんなことがないようにと広く知られることを望んでいるのに。70年間語らせなかった、口を塞いだのは誰だったのだろうと考えた。もちろん、団長の息子さん一人ではない。彼はそのうちの一人というだけで、もっと大きな、語らせない社会の空気とかしがらみとかがあった。多分今もある。そこを勇気を持って打破してくれる人がいたことが本当にありがたい。どんなに怖かっただろう。

 

話が脱線するけれど、以前一度だけ新聞取材を受けて記事になったことがある。例の自分の結婚コンプレックスについてだったけど、顔出し無しでただ自分の悩みを語るだけなのに「後ろ姿でも自分だってわかったらどうしよう」「会社の人や親が読んじゃったらどうしよう」と悩んだ。結局、毎日新聞を会社で取っていないことが一つ決め手になって取材を受けた。記事が配信された後も絶対に記事に関してエゴサはしないと決めた。反響なんて見たくなかった。「この記事は私です」ってインターネットで言えるまで一年以上かかった。「取材を受けて記事になりました〜!」なんて絶対ツイートできなかった。

この経験があるから、例えば性被害を受けて相手を告発した人に「売名」みたいな誹謗中傷が寄せられているのを見るといたたまれない。そんなわけないだろって思う。人に話すこと、それが記事になって広く読まれることがどんなに怖いか。顔と名前を出したら尚更。自分とは比べ物にならないほどの勇気と葛藤をいつも想像している。

 

「黒川の女たち」のうちのお一人は、最初のうちは顔と氏名を隠して、首から下の撮影にしか応じなかった。自分の家族にも被害のことを話したことはない、そんなの絶対に無理だと語っていた。最初の取材の数年後、顔を出して被害を語り始めたらしい。この映画の監督さんが改めて取材に行くと、最初の取材時とは全く違う、柔らかな雰囲気になっていたそう。ずっと家族にも言えない秘密を抱えていて、笑うことも少なかったらしい。でも、被害を知ったお孫さんから「おばあちゃんのことが変わらず大好きだよ」と手紙が届いて、一番恐れていたことが杞憂に終わって、安心したのかもしれない。嬉しそうに肌身離さず手紙を持ち歩いて、色んな人に見せている。お孫さんや曾孫さんと触れ合ってたくさん笑うから、以前は笑わないおばあちゃんだったなんて想像できない。

 

私の祖父母は全員既に亡くなている。結局、「戦争体験を聞く」ことから逃げ続けて一度も聞かなかった。聞けなかった。思い出させることの方が酷だと思った。本当にそうだったのかな? もしかして、聞いて欲しかったこともあるのかな。今となってはもう遅い。ごめんなさいと、少しだけ思う。