1996-2003

 

私は1996年から2003年までアメリカに住んでいた。

アメリカ北東部のオハイオ州、コロンバスという州都だった。ここまで具体的に書くのはアメリカがあまりにも広く、時代と共に変わって来たので、少しずれれば全然違う「アメリカ」だと思うからだ。私の経験を書くからには、これは「1996年から2003年のコロンバス」の話であると伝えておきたい。特に「オハイオ」という州名は恐らく当時と今とで印象が全く違う。

 

父親の仕事の都合で家族ごとオハイオへ引っ越し、自分は小学生時代を丸々向こうで過ごした。「日本人が多い」と聞いて学校を選んだのに、その情報が古かったので入学時に日本人は自分一人だった。話が違うと言って毎日泣いて登校を嫌がった。それでも3年ぐらい経ったら、急に言葉がわかるようになって楽しく学校へ行くようになった。どんな環境でも、それなりに言葉を学ぶには最低3年は必要ということかも知れない。

2025年現在、トランプ政権によってめちゃくちゃになっているアメリカを見ながら、自分が過ごした小学校時代のことをよく思い出す。こんな国ではなかったし、こんな国になるような教育を受けた覚えはない。20年以上も前なので記憶は断片的だけど、覚えている出来事がいくつかある。その話を誰かに聞いて欲しい。

私は日本の小学校に通っていない。土曜日だけ通う補習校には行ったけれど、あくまで「補習」なので日本の小学校のカリキュラムとは大きく違うと思う。日本の小学校で、「歴史」と言ったら何を学ぶのだろう?「戦争」と言ったらどの戦争? アメリカのオハイオ州の小学校で、一番熱心に教わったのは「南北戦争」だった。一番時間をかけて、映画や読書も活用して教わった。ひょっとしたら歴史の時間だけじゃなかったかもしれない。南北戦争を通じて、生徒は「人権」を教え込まれた。これは、オハイオが北部の州であることが大いに関係していると思う。授業の内容以上に、教えていた先生たちの熱意を覚えている。私のようなアジア人だけではなく、色んな人種の生徒たちがいる教室で、キング牧師の教えを読み聞かせた。先生たちがどんな思いで授業をしていたのか、今になって聞きたい。

日本人は自分一人だけだったけれど、教室の中には色んな国をルーツとした生徒たちがいた。アフリカ系はもちろん、中国系、韓国、ベネズエラ、フィンランド……。白人でも、例えば「ドイツ系」とか「アイルランド系」とかそれぞれ自分のルーツがあり、私の「日本」はそれと同等のように捉えられた。「アメリカ人ではないこと」を理由に差別をされた記憶はない。それぞれに別のルーツがあるのは当たり前のことだった。ニューヨークやロサンゼルスのような大都市ではない、北部の片田舎でもそうだった。

そんな環境の中で二度、私は先生から「日本人であること」を理由に役割を求められた。一度目はディベートの授業で、議題が「日本に原爆を投下したことの賛否」だった。このお題が決まった時、私は自信満々で「反対」派についた。なんなら、この議題では授業が成立しないと思った。日本人の私がクラスにいるのに、この場で賛成側につくクラスメートがいるなんて全く想像をしなかった。この思い込みで、後に私は授業をぶち壊した。

ほとんどの生徒が私と同じ「反対」側についた中で、数人が「賛成」派だった。そもそも原爆投下に賛成派がいることが衝撃的だった。ディベートなので、そのうちの一人が理由を述べた。「戦争を早く終わらせるために必要だった。」ショックを受けて、私はその場で大泣きして、ディベートを中止に追い込んだ。泣いている理由を話さなければならなかったけれど、英語で上手く理由を説明することなんてできず、「原爆でたくさんの人が死んだ。私の親戚もみんな」と、事実と違うことを言った。(自分に原爆で亡くなった親戚はいない)あのディベートのことを、他に一人でも覚えているだろうか。

二度目は、卒業が近づいた四年生か五年生の頃だった。大好きだった美術の先生から、「”Let’s be friends.”を日本語でどう書くのか教えて欲しい」と言われた。家に帰って父親に書いてもらおうとしたら、自分の字では恥ずかしいと言って明朝体で「お友達になりましょう。」と印刷して渡してくれた。その紙を片手に、先生はカフェテリア入口に描いていた壁画にその文字を書いた。目の色も髪の色も様々な、各国の民族衣装を着た子どもたちの絵に、各国の言葉で”Let’s be friends.”と書いていた。壁画は私が卒業する前に完成した。あの「お友達になりましょう。」は今もあるのだろうか。私が卒業した後に、あの学校に入学した日本人生徒のことを想う。言葉がわからなくて不安でいっぱいなときに、壁に書いてある母国語がどれほどの安心を与えるか。言葉の通じない生徒に何ができるか、先生たちはずっと考えていたのかもしれない。

 

私が住んでいた当時のアメリカが完璧な国だったとは思わない。それでも、私のような異国の子どもに良い思い出を残してくれるような国だった。先生たちとクラスメイトたちは元気だろうか。友達になれたことを、今も覚えているだろうか。