「明日は昼過ぎに病院に行こう」という約束をして家に帰ったけど、夜中にお母さんから電話がかかってきた。おじいちゃんの容体が悪化して今から病院に行くので準備して欲しいと。了解して時間を見ると2:30で、寝てから一時間ぐらいしか経っていないことに驚いた。普通に朝なのかと思っていた。お父さんの車で病院へ向かいながら、おじいちゃんを何時間一人にしてしまったのか、その間苦しかったりしただろうかと心配だった。
夜中で道が空いていたので病院には意外と早く着いた。病室には叔父さんが先に着いていた。おじいちゃんはもう意識がなく、瞳孔が開いていて、脳も機能していないらしい。「聴覚は最後まで残るというけど、そもそも耳が遠いからね。」耳元で叔父さんが呼びかけても、手を握り返さないらしい。顔を覗き込むと、目を開いたまま浅い呼吸を繰り返していた。おじいちゃんの手を握っても握り返してこないけど、体温は低くても僅かに温かい。パイプ椅子でおじいちゃんのベッドの隣に座って、たまにお母さんと場所を交換しながらもずっとおじいちゃんの手を握った。叔父さんとお父さんがあれこれ話す声だけはずっと続いたけど、お母さんと私はほとんど黙ったままだった。今のおじいちゃんの顔を見るのも辛いかなと思った。お母さんのお父さんだから。おじいちゃんの心電図と血圧と酸素を表示するモニターは、血圧は下がっていたけど心電図の数値は安定した数字でしばらく変わらなかった。おじいちゃんは本当にすごいよね、という話をよくする。歩け歩けでたくさん歩いたからだろうか?足腰が強くて健康で、心臓や肺の病気をしても回復力がとても強かった。「もう二度と酸素は外せないかもしれません」とお医者さんに言われた後に、酸素を外して生活できるようになった。そうやってお医者さんもびっくりな回復を繰り返しながら、こうやって長生きしてくれた。昨日の夜寝る前、おじいちゃんは長生きだから、おばあちゃんを始め兄妹や親しい人たちみんな先に亡くなってしまったから寂しいだろうと思った。本当はもう向こうへ行った方が、ご飯も食べたいものを食べられるし自分の足で歩いてどこでも行けて、おばあちゃんや家族や友達がいるから幸せなんじゃないか。引き止めてるのは私なのかな。夜中だから、ついそんなことを考えてしまった。
おじさんは「いつまでこの状態が続くかわからない」と言って、夜が明けたらお医者さんは来るのかとか、今後数日はおじいちゃんの家に泊まって備えようかなとか、この先のことを話していた。おじいちゃんの手を握って撫でながら、「家族がみんな集まってる、今が一番いいのにな」と思っていた。おじいちゃんの脳はもう機能停止しているのに、心臓と呼吸は続いていて、特に呼吸は痰が絡んで苦しそうなのに懸命に続いている。もう10年も前になるかもしれないけど、おじいちゃんが「夜中寝てる時に心臓が止まって、すーーっと意識が遠のく時に『もうこれでいい』と思った」というようなことを話していた。おじいちゃんは胸にペースメーカーを入れてるから、その時もペースメーカーのおかげで心臓は止まらなかったけど。「もういい」って思っちゃったの?ってその時は悲しかった。でもそれをずっと覚えているから、いつその時が来てもおじいちゃんは「もういい」んだろうと思っていた。叔父さんはこの先の話をしてるのに、私は「おじいちゃん、もう大丈夫だよ」「おじいちゃんの心臓はこれ以上頑張らなくってもいいよ」「今が一番いいんだよ」と心の中で語りかけながら手を握っていた。
明け方の6時近くなって、おじいちゃんの数値が異常の範囲に引っかかるようになって注意音みたいなものが鳴るようになった。看護士さんたちがやってきて、色々と整える作業をするのでいったん外で待つことになった。すごくお腹が空いていたのでお父さんに頼んで、車にあるソイジョイを持ってきてもらった。看護士さんがおじいちゃんの体勢とかを整えて綺麗にしてくれて、また病室に戻った。戻る時に、「だんだんと数値が落ちてきていますね」と言われた。この数値が落ちていって最後に0になるらしい。痰が絡んでいたのをなんとかしてくれたのか、呼吸が静かになっていた。 おじいちゃんの手を握って、おじいちゃんの心電図モニターを見ながら自分はソイジョイを齧った。こんな時でもお腹は空くし、生きるってこういうことなんだよなって思った。そうしてるうちにおじいちゃんの心電図がだんだんと正常とは違う波形が増えて、数値も急に下がってきた。あと二口残ってたソイジョイを仕舞った。お母さんが「おじいちゃん、呼吸してない」と言った。みんなが見てる中で波形がだんだん小さくなっていって止まった。悲しいよりも何よりも先に、ホッとした。心電図が止まった後も、看護士さんが呼んだお医者さんが来るまでおじいちゃんの手をずっと撫でていた。おじいちゃんの腕には、点滴や注射でできた赤い鬱血がたくさんあった。おじいちゃんの優しい手。ずっと頑張って頑張って働いてきた手。すべすべでちょっと体温が低いけど、心臓が止まっても変化は感じられなかった。
昨日とは別の、メガネのイケメンのお医者さんがやってきておじいちゃんの死亡診断をした。そこからは怒濤の、葬儀屋はいつ来るとか通夜をするとかしないとか、坊主の予定はどうだとか。全部叔父さんがやってくれるので、ほとんどお任せしている。叔父さんは昔おじいちゃんとめちゃくちゃ仲悪かった筈だけど、いつの間にか仲直りしたのかおじいちゃんが受ける介護のサービスとか全部やってくれていた。おばあちゃんの葬儀も任せたし、今回も任せる。棺に入れるものだけはみんなであれこれアイディアを出して、葬儀屋が来た後におじいちゃんちに行って見繕った。インターネットで検索したら手紙を入れるのも良いとあったので、コロナ禍で会いに行けなかった時に私からおじいちゃんへ出していたハガキを入れることにした。読んでくれてたのかわからないけど、今読むと本当に「そんなことTwitterに書いとけ」レベルの中身のない私の日常だった。たまーに絵を描いたから、それを見てくれてたらいいな。イルカを描いたやつは、確か気に入ってくれてた筈だ。
その他に形見分けとして欲しいものをとりあえず全部貰って、余ってる消耗品(サランラップとか)も根こそぎ貰って行った。庭の亀が欲しいと言ったら叔父さんがすぐに取ってきてくれた。叔父さんも鶴の存在は知らなかった。念のためもう一度庭に探しに行ったけどいなかった。鶴どこに行っちゃったんだろうね?って大人たちが話してる姿は平和で面白かった。とりあえず急ぎの用事は終わって、9時にはおじいちゃんの家を出て解散となった。葬儀は火曜日になるらしい。
このブログにはおじいちゃんとの思い出をたくさん書いた。自分が忘れてしまわないように、忘れても思い出せるように日記のつもりで書いてきた。それを他の人が読んでくれたおかげで、大好きなおじいちゃんが読んだ人の心にも僅かに残ったような、生きた証のような気がして嬉しい。救われる思い。いつか、おじいちゃんが亡くなったことをここで報告しないといけない日が来るんだと頭の片隅に常にあった。その日が来てしまったけど、ああすれば良かったとかこうすれば良かったとか後悔するようなことは全然ない。たくさん会いに行って、話すネタが尽きるぐらい話して、それを文章に残して良かった。読んでいただき、本当に本当にありがとうございました。これからはわざわざ会いに行かなくても、おじいちゃんは近くにいてくれてる気がします。